◆◆◆◆◆セドリックが唇を噛みしめ、手紙から顔を上げる。視線の先では、父であるガブリエル・アシュフォードが彼を見据えていた。暖炉の炎が静かに揺れ、微かな薪のはぜる音が響く。部屋の空気は重苦しく、まるで鉛のように胸にのしかかる。「……で、お前はどうするつもりだ?」杖を手にした父の声は静かだったが、張り詰めた緊張感が部屋を支配する。「……私から離縁届を出します」低く絞り出した言葉が、空間を震わせるように響いた。ガブリエルは無言のまま視線を鋭くする。その目には感情の色はない。ただ、冷たく、鋭利な刃のように息子を貫いた。セドリックは無意識に喉を鳴らしながらも続ける。「ヴィオレットとはずっと不仲でしたが、一度は惚れた女です。最後は誠実でありたい」その言葉に、ガブリエルはふっと鼻を鳴らした。「ほぅ……随分と寛容だな、セドリック?」その声音には、皮肉と嘲笑が混じっていた。息子の甘さを見透かしたかのような冷たい響き。セドリックは視線を逸らさず、意を決したように言葉を紡ぐ。「……父上が投資した鉱山開発が上手くいっていれば、持参金も耳を揃えて返したいところです」一瞬、ガブリエルの眉がわずかに動いた。部屋の空気が変わる。セドリックは気付かず、先を続けた。「これを機に……父上は身を引いてください。私がアシュフォード家の当主として事業運営を引き継ぎます」言い切ると、静寂が訪れた。ガブリエルは微動だにせず、セドリックをじっと見つめる。沈黙の中、暖炉の火が揺れる。今年初めて火が入り、部屋に広がるのは煤けた灰の香りと、燻った木材の匂い。ガブリエルは視線をゆっくりと暖炉に移し黙り込む。「私はどうなるの?」沈黙を破ったのは、部屋の隅で縮こまるように立っていたミア・グリーンだった。その声はかすかに震えていたが、かろうじて平静を装っていた。セドリックは鬱陶しそうに視線をやりながらも応じる。「……ルイについては、一旦預かり、ほとぼりが冷めた頃に養子に出すつもりだ」その発言に、ミアの顔色が変わった。「養子先は貴族よね? ただの庶民の家にルイを養子になんて出さないわよね? 最低でも男爵の家でなくては駄目よ。それと、私はどうすればいいの? 貴方の元が無理ならルイと一緒に行くけど……」焦りが滲む声で、ミアは必死にセドリックに詰め寄る。「……何を言っている
◆◆◆◆◆セドリックは無言で手紙を開封した。その手元に視線を落とし、ゆっくりと中身を確認する。「……アルフォンスからか?」ガブリエルが杖で床を軽く叩きながら低い声で尋ねた。「はい、ルーベンス家の当主アルフォンス・ルーベンスからです」セドリックは手紙を見つめ、深く息を吐いた。そして、読み上げを始める。ーー『アシュフォード伯爵ガブリエル・アシュフォード殿、ならびにセドリック・アシュフォード殿へ。まずは、私の妹ヴィオレットが受けた精神的苦痛について、アシュフォード家に抗議の意を表明する。本状において、以下の条件を提示する。これに従うことでのみ、アシュフォード家は私の妹ヴィオレットおよびルーベンス家の名誉を汚さずに済むであろう。第一の条件離縁届を、セドリック殿自らの意思で教会に提出すること。これは、妹が離縁の責任を一方的に負う形にならぬよう配慮したものである。今後、ヴィオレットの名誉がさらに傷つくことがあれば、ルーベンス家として断固たる措置を講じる所存である。第二の条件ルイ・アシュフォードを正式にアシュフォード家の一員として育てること。ルイの存在はすでに周囲に知られており、このまま彼を放置することは貴族社会においてアシュフォード家の信用を損なう行為と見なされる。ルイが幼い身であり、罪なき存在である以上、その将来を保障するのはアシュフォード家の責務である。上記の条件が守られない場合の対処1. ヴィオレットの持参金を即座に引き上げる。これは、妹が持参金を以てしてアシュフォード家を支えている現状を踏まえ、条件履行の強い要請とするものだ。2. アシュフォード家の名誉に関わる情報を公にする可能性を示唆する。特に、ヴィオレットがルーベンス家に戻る理由についての詳細が明るみに出れば、アシュフォード家にとって甚大な影響を及ぼすだろう。期限は本状到着より一ヶ月後までとする。その間に対応がなされない場合、上記の措置を順次実行する。なお、ミア・グリーンに関してはルーベンス家として一切関与しない。彼女の処遇はアシュフォード家に一任する。ただし、彼女が再び問題を引き起こした場合、その責任は全面的にアシュフォード家が負うことになる点を念押ししておく。誠意ある対応を期待している。アルフォンス・ルーベンス』ーーセドリックは手紙を読み終え、無言のまま視線を落
◆◆◆◆◆「貴方に会えて……嬉しいわ」親しげに寄るミアの手。その指先が、そっとセドリックの腕に触れる。その温もりが、セドリックにはやけに生々しく感じられた。次の瞬間――「……っ!」セドリックは不快感を露わにし、その手を乱暴に払いのけた。「あっ……」驚いたミアが小さく声を漏らし、怯えたようにセドリックを見つめる。彼女を迎えたのは、冷え切ったセドリックの視線だった。ミアは動揺して視線をさまよわせて、ガブリエルを視界にとらえる。ソファに腰掛けるガブリエル・アシュフォードは、黄金の瞳を冷たく光らせながら、手元の杖を軽く指で叩いている。その音は、まるで処刑の鐘のように静かに響いていた。「……っ」再びセドリックに視線を戻すと、彼の表情には何の感情も浮かんでいない。ただ沈黙の中で、鋭い視線が彼女を射抜いていた。――かつては愛を囁き合ったのに。すでにセドリックにとって、それは過去のことなのか。腹の底から冷たくなる。冷たい怒り。だが、ここで激情を見せるわけにはいかない。ミアはぐっと気持ちを抑えた。セドリックを味方につけなければ、自分の未来はない。だからこそ、彼女は弱者の立場を演じることにした。「……私は、ルーベンス家の牢に閉じ込められていました」ゆっくりと、息を整えながら口を開く。「暗く、冷たい石の部屋で、ただ時間だけが過ぎていく。食事もまともに与えられず、身の回りの世話をしてくれる者もいなかった……。私は、どれほど耐え忍んだことか……」声は震え、わずかに目を伏せる。しかし――セドリックもガブリエルも、微動だにしない。「本当に、酷い目に遭いました……」ミアはそう言いながら、そっとセドリックを見上げる。助けを求める女の瞳。出逢った頃のセドリックは、この目を向けるだけで動揺して、優しい言葉を囁いてくれた。だが、彼の青い瞳は今や氷のように冷たい。「それで?」彼はただ、それだけを返す。ミアの唇がわずかに歪む。「……え?」「手紙だ。お前がここへ来た理由は、それを渡すためだろう?」冷たい声が部屋に響く。ミアは内心で舌打ちした。期待していた反応と違っていたからだ。彼らが少しでも同情を寄せてくれればと思ったのに、まるで無関心のようにあしらわれた。――ここで引くわけにはいかない。ミアは表情を整え、可憐な笑みを浮かべた。「……え
◆◆◆◆◆書斎の扉が開いた。微かな軋みとともに、ミア・グリーンが姿を現す。彼女は一歩足を踏み入れた瞬間、室内に漂う冷ややかな空気に息を詰まらせた。そして、視線を上げた瞬間――そこに座る人物を見て、思わず足を止める。ガブリエル・アシュフォード。セドリックの父。かつて、自分とセドリックを引き裂いた張本人。「……っ」思わず唇を噛む。記憶が蘇る。最初の子を身籠ったときのこと。セドリックの子を宿したと知るや否や、ガブリエルは容赦なく彼女を引き離し、子を奪った。いや、奪ったのではない。葬ったのだ。冷たい指示のもと、医師によって堕胎させられた。それは、自分の意思ではなかった…ガブリエルの命令で。「……ガブリエル様」声が震えないように意識しながら、彼の名を呼ぶ。黄金の瞳が、冷たく彼女を見据える。「ほう、お前がこの家に足を踏み入れるとはな」その視線は、まるで汚物でも見るような冷ややかさだった。ミアは拳を握りしめる。負けるものか――もう、奪われるのはごめんだ。「お久しぶりです、伯爵様」無理にでも笑みを作り、ガブリエルの冷たい視線に負けぬよう顔を上げる。すると、セドリックが戸惑ったように彼女に声を掛けた。「……ミア? お前……どうしてここに?」彼の表情には困惑が滲んでいた。それも当然だ。ミアは、ルーベンス家の人間に捕まったはず。なぜ解放されたのか? そして、なぜアシュフォード家に現れたのか?「どういうことだ?」低く問いかけるセドリック。すると、執事のジェフリーが答えた。「ミア・グリーン様は、ルーベンス家の当主より手紙を携えて参りました」「手紙?」セドリックの眉がひそめられる。ルーベンス家の当主――つまり、アルフォンス・ルーベンスからの手紙。ヴィオレットの兄であり、従兄弟でもある男が、なぜミアをここへ送ったのか。「内容は?」「開封されておりませんので、私には分かりかねます」ジェフリーの言葉に、セドリックは僅かに口を噤む。その沈黙を破ったのは、ガブリエルだった。「手紙の内容は後で確認するとして……泣き声が耳障りだな」ガブリエルの冷たい声が室内に響く。ルイが籠の中でぐずり、小さな声で泣いていた。「ジェフリー、ルイを連れて行け」「かしこまりました」ジェフリーは籠を抱え、書斎を後にしようとする。「待て」セドリックが思わず声をかけた
◆◆◆◆◆セドリックの様子を見つめながら、ガブリエルはゆっくりと言葉を紡いだ。「第一、それはルイが私の血を引いていることが前提での話だ。庭師の女に騙されて、血の繋がりがないものを掴まされるとは……愚か者が」セドリックは苦痛に顔を歪めながら、父を睨んだ。ガブリエルは子爵家の次男として生まれ、伯爵家に婿入りした。セドリックの母、エレーナ・アシュフォードは、もともと気鬱が激しい人物で、セドリックが生まれた後、夫婦関係は冷え切っている。そのため、ガブリエルにとってセドリックは『望んだ息子』ではなかった。黄金の髪と瞳を持つガブリエルに対し、セドリックは青い瞳に赤茶色の髪。母の血を色濃く継いだ姿は、父にとっては疎ましいものでしかない。「……それより問題なのは、ヴィオレットが出した離縁届だ」セドリックは眉をひそめた。「……ヴィオレットが?」「教会の枢機卿、アウグスト・デ・ラクロワから直接連絡があった」「……アウグスト枢機卿が?」「彼女は正式に離縁を望み、教会に届けを出した。しかし、アウグストはそれを受理しないよう手を回したそうだ」セドリックの表情が凍りつく。「父上が離縁届を止めるように頼まれたのですか? 私はそんな事は頼んでおりません」「お前はヴィオレットが教会に離縁届を出したことさえ知らなかった。そんな息子に任せておけるものか。それに、彼女の離縁届を受理しなかったのはアウグストの意思だ」「えっ?」ガブリエルは冷ややかに笑った。セドリックは苦々しげに呟く。「離縁の決定権さえ……私にはないのですか?」「そのようだな」黄金の瞳が冷たく光る。――なぜアウグストがヴィオレットと俺の離縁に関心を持つ?セドリックは不可解に思い、父を見つめた。その気持ちを察したガブリエルが、鼻で笑いながら応じる。「アウグストが離縁届を受理しなかったのは、私怨からかもしれないな」「どういう意味ですか?」セドリックが問い返すと、ガブリエルは指先で杖を軽く叩き、わずかに口角を上げた。「アウグストの出自は公爵家だ。当主の座を甥に譲って教会入りし、今は筆頭の枢機卿。次期教皇との噂もある。彼は教会の改革を考えているようだ」ガブリエルは一息ついた後、続ける。「教会は本来、女からの離縁届を受け付けていない。だが、貴族が金を積めば例外が作られ、それが慣例化しつつある
◆◆◆◆◆ミア・グリーンは手紙を携え、ルーベンス家の別邸を後にした。王都の郊外にあるその邸は、見た目こそ普通の貴族の館だったが、実態は違う。地下には牢獄があり、囚われた者がいる。――ダミアン・クレイン。かつての恋人であり、共犯者。ミアとダミアンは、ヴィオレットとリリアーナの殺害計画を立てたが、失敗に終わった。その結果、ミアは解放され、ダミアンは捕らえられたままだ。ーーざまあみろミアは心の中でそう毒づく。牢の中でどれほど後悔しようともう遅い。ダミアンがどうなろうと知ったことではない。それよりも、ミアはこれからのことを考えなければならない。――セドリック・アシュフォードの傍に居続けるために。ミアは籠に入れたルイを見てため息をついた。ルイが利用できない以上、すべて自分の立ち回り次第。彼女はステップに足をかけ、馬車に乗り込む。しかし、御者は扉を閉めようとしなかった。「……ちっ」ミアは舌打ちすると、自ら馬車の扉を乱暴に閉めた。「ったく、仕事くらいまともにしなさいよ」文句を呟きながら、座席に腰を下ろす。馬車が動き出すと、ミアは鏡を取り出し、手早く身支度を整え始めた。長い金髪を撫で、服の襟元を正す。セドリックに会ったとき、少しでも美しく見せるために。ルイが彼の子供でないと分かった今、自分の武器は美貌しか残されていない。「……ん、ああ……ぅ……」籠の中でルイがぐずり始める。ミアは鏡越しにチラリと視線を向けたが、すぐに目を逸らし、指先で唇の色を確かめた。赤ん坊の泣き声など、彼女にとっては気にするほどのことではなかった。馬車はアシュフォード家へと向かい、静かに進んでいく。◇◇◇アシュフォード家 書斎重厚なマホガニーの机と、壁一面の書棚。ここはアシュフォード伯爵家の書斎。だが今、その荘厳な空間に張り詰めた空気が漂っていた。「お前は何度、私を失望させれば気が済むのだ」低く鋭い声が響く。ソファに腰掛けたのはアシュフォード伯爵、ガブリエル・アシュフォードだ。黄金の瞳が冷たい光を帯び、握る杖の先で床を静かに叩いている。その動作一つとっても、彼の苛立ちは隠しようがなかった。「ヴィオレットを惚れさせ、妻に迎えたことだけが、お前の唯一の価値だったというのに。妾に現を抜かし、彼女を逃すとは……馬鹿め」セドリックは拳を握りしめた。「ルイが…男子